みーさんのブログ

心を自由に♡健康な心と体のメンテナンス

私について①幼少期

今日は私自身のことについて語って(?)いきたいと思います。

生い立ち

私は兄と弟に挟まれた3人兄弟の真ん中の長女として、神奈川県横須賀市に生まれ育ちました。幼い頃住んでいた家は本当に山の中。お隣にお家など1キロ以上先に行かないとまったく無く、畑に囲まれているような場所でした。当時は両親のほかに養鶏業を営んでいた父方の祖父母と一緒に住んでいました。といっても父は船の通信士(当時の名称でT漁業)として働いていましたから、長い時には半年以上も家にいないことがあり、そんな時は母も私と兄を連れて母の実家に帰っていることが多かったようです。

 

船から戻ると、父が私たち家族を迎えに来るのですが、兄が父のことを「おじさん」と呼んだり、また、母の実家にいる伯父のことを逆に「パパ」と呼んでしまったりで、当時の父はショックを受けていたというのを母から聞いことがあります。また、母自身も相当寂しかったようで、父には船の仕事は辞めて家から通える仕事にしてほしいと訴え、私が1歳になる前に父は通信士を辞めることになりました。そして、電気屋さんの従業員として働くことになりました。

 

父が転職したことは、私たちにとっては家族が一緒に過ごす幸せな時間を与えてくれました。ですが、段々と他のところに影響が出てきました。その当時T漁業はお給料がよく、祖父母の養鶏業も父からの収入の支えが大きかったようです。それが転職によって収入が激減してしまい、だんだんと生活が苦しくなってくると、祖父母はもう一度船に乗ることを勧めるようになったのでした。

 

母にとっては、絶対に受け入れたくないことでした。やっと家族が離れずに一緒にいられるようになったのに、もう二度と父を船に乗せたくない。そんな思いで母は自分から、「私が卵を売りに行きます!」と、自分も働くことを決断したそうです。そして、そのことで、今度は兄と私の生活にも変化が起きました。

 

それまでは母と兄と私はいつでも一緒にいられました。両親が共働きになることで、まず、兄は実家の近くの幼稚園に行くことになり、私は母の仕事場の近くにある保育園に預けられることになりました。そして父の職場である電気屋さんは、母が卵を売ることになった市場とは大通りの向い合わせに位置していて近い距離にあったので、朝は父の車に卵を積んで3人で出発し、私は保育園に、母と卵を市場に降ろして、父は仕事場に。帰りは両親の仕事が終わった段階で私を迎えに来て3人そろって兄が待っている実家に帰る、という生活でした。

 

 頭の中が?マークの1歳時

幸い母のお店はとても繁盛したそうです。そのころ卵が1パック300円以上するのが当たり前の時代です。だんだんと母も忙しくなったのか、保育園の預かり時間が終わった後も引き続き母のママ友の家にそのまま預けられることが多くなってきました。もちろん仕事が終わると母が迎えに来てくれるのですが、私の頭の中はいつも?マーク。

 

どうして私はこのお家(母のママ友の家)にいるんだろう?

どうしてママは早く迎えに来てくれないんだろう?

 

こんな考えがいつも頭の中にあったことを覚えているのです。まだ2歳になる前ですから、早くお家に帰りたかったのだろうし、ママが居なくて寂しい、早くママに会いたいという、言葉にはできなくても寂しい感情がたくさんあったのではないかと思います。ただ、幼いなりに預けられているよそのお家で、その感情を安心して出すことができなかったようです。結局我慢していたのか諦めていたのか、泣き出したり騒いだりした記憶はなく、ただただはてなマークがたくさんあった感覚でした。

 

ひとたびお迎えが来ると、今度は本当にうれしくて、帰りの父の車の中では歌を歌わずに入られないくらい。家に到着するまで歌いっぱなし、嬉しい感情を歌を歌うことで出していたのを覚えています。

 

先生に言えなかった私

保育園ではその当時お気に入りだったピンクの縁取りがついた仮面ライダーのハンカチ(記憶の中ではピンクの縁取りがあったはずなのです!)を、便器の中に落としてしまい(当時は汲み取り式)、それを先生になかなか言えなかったことを覚えています。記憶があいまいなので、先生を引っ張って連れていったのか押していったのかは分かりませんが、やっとこさっとこ先生をトイレに連れて行き、無言で落ちたハンカチを指さしました。頭の中では先生、取ってー!、と、拾ってもらえることを期待していました。

残念なことに先生は、
「あー、、おうちの人にまた買ってもらってねー」

 

ガーン。。(;_;)

そんなことを言われるとは思っていなく、先生だったら拾ってくれるはずと思って、一生懸命伝えることにチャレンジしたのに、拾ってもらえないと分かって本当にショックでした。でもそれ以上は先生には言うことが出来ず、お気に入りだったハンカチを渋々諦めたのです。

 

子どもにはよくあることですが、「トイレに行きたい」の一言が先生に言えず、我慢してしまう子でもありました。保育園でもあったのではないかと思いますが、幼稚園(3歳くらい)の頃に、先生に言えなかったことで結局限界を超えてしまいお漏らしをしてしまったことを覚えています。とても苦しいのに、一言言えば済むことなのに、どうしても言うことが出来ないのです。何か自分の気持ちや意志を伝えることになかなか勇気がでなく躊躇してしまい、苦手だと思う感覚がずっとありました。そしてそんな状況が繰り返されることで、さらに言えない私を強化することになって行きました。

 

続く