孤独にさせない社会を創りたい
先日の川崎市で起きた、刃物による殺傷事件の加害者の人物像や事件当日の詳細が報道される毎日です。
被害に遭われた方、ご遺族、ご家族にとってはやり場のない怒りや一瞬にして家族を失ってしまったことに対する喪失感。言葉にできない思いを感じています。
面識のない加害者からの不特定多数に対する殺意によるこのような事件は、どうして防ぐことができるんでしょうか。
行ってきます!と朝出かけて行った家族が、もう二度と言葉を交わし合えない、そんな現実。
もし自分の家族が事件に巻き込まれてしまったならば、突然起こった悲惨な現実に対する絶望と悲しみと、きっと加害者に対する怒りの感情を、殺意を持つぐらいまでになるだろうと思います。
そして、なぜこんな目に遭わなければならなかったのだと、ずっとグルグル問いかけると思うのです。
もしもあの時、あの時間、あの場所にいなかったら、、とか。
そして逆に自分の子どもが事件を起こした加害者だとしたら、、。
どうして、こうなる前に気付いてあげられなかったんだろう。
きっと、どちらの立場になったとしても、親である自分が何かできなかっただろうかあと、自分の至らなさを悔いるのだろうなと。
当事者じゃなければ自分事として、同じように考えることはできないかもしれない。
それでも同じ立場をイメージしてみれば、二度とこんなことが起こらないようにするにはどうしたらいいのだろう、こんな事件に巻き込まれないためにはどうすればいいのだろうと、思うようになるのではないでしょうか。
そして、一番立場チェンジして考えづらいのが、加害者本人です。
なんで、こんな風に全然関係のない人たちを傷つけなければならなかったのか。
51歳の男性がなぜ、あの事件を起こしたのか。
本人が死亡してしまったので、その真相に触れることはできないけれど、あまりにもこのような、人の命を自分勝手に巻き込んでいく事件が後を絶たないので、いったい何が原因で、こんな心が生まれるのだろうかと、そこにフォーカスすることにしました。
メディアで伝える情報では、加害者の男性は両親の離婚により、実の親ではなく祖父母と叔父叔母従兄従姉の家で育ったとのこと。
一部の情報を切り取って一概には言えないけれど、子どもの頃に無条件安心の海で育てられる環境ではなかったのではないかな。と思いました。
もちろんいい大人なのだから、正しい判断をできる力を自分で持てなかった責任を追及心もあると思うけれど、実は自分が何者なのかが分からない中では、実は年齢を重ねるだけでは大人になれないと思っています。
人を殺して自分も死のうなどというとき、自暴自棄になるような心の状態ではきっとずいぶんと前から自己肯定感、自己価値が低かったんだろうと思います。
無限の可能性そのものと認識できない教育、足りないものは何もない、相対比較できない尊厳そのものの自分であることが分からない教育を変えたい。
誰も孤独にさせない社会を創りたくて、私はリライズムーブメントを広げていきます。
リライズムーブメントについて:ご興味があれば是非こちらから出会ってみてください。